ぼくのかんがえたさいきょうの北条家

既視感のあるタイトルである。今回は「鎌倉殿の13人」を全話見たのだが北条義時北条政子の人物像が全く見えてこなかったので、自分なりに理想の義時と政子について考えてみた。

 

「鎌倉殿の13人」では家族仲がよく人を殺しても謀反を起こしても、身内にだけはやさしい北条ファミリーだったが、本当は家族関係はもっとギスギスしていたのではないだろうか。 

 

ドラマでは義時も政子も周りに巻き込まれていつのまにか権力を持っていたという感じだったが、あれだけ権力争いの激しい世で自然に権力を持つのは不自然だ。義時も政子も北条氏や周囲の人のためというよりは自らの権力のために戦う人間だったと考える。

 

北条政子は生まれつき権力欲が強く、始めから権力が目当てで源頼朝に近づいた。平家に対する不満が高まっているなか、平家追討の旗印になるのは頼朝しかいない。頼朝が平家を倒して天下をとった時に婚姻関係を結んでいれば自分は御台所になれる。そう思って。

 

政子が頼朝の浮気を許さなかったのは、頼朝が他の女と子を作ってしまうと身分の低い自分の子以外が跡継ぎになる可能性が高くなるから。自分の子が後継ぎにならないと政子自身の権力が弱まってしまう。だから亀の前事件などで館に火をつけさせてまでも頼朝の浮気を断固阻止した。

 

北条義時北条時政の次男である。頼朝が挙兵したときに長男が亡くなったため、次男である義時は当然北条氏を継ぐものだと思っていた。だが義時の母は身分が低い上に時政は後妻の牧の方を溺愛していたため、牧の方との間にできた子どもに後を継がせようとしていた。

 

それを時政の自分への態度から察した義時は北条氏を継ぐことをあきらめ頼朝に仕えることで権力を手に入れようとした。義時は家を背負う必要がなく身軽な立場だったので頼朝も使いやすかった。実際に仕事もできたので頼朝から重用されるように。

 

頼朝が権力を持っている間の北条ファミリーは安定していたが、頼朝が亡くなって頼家が2代目鎌倉殿になると不安定に。頼家の元で時政と義時は政務を行う13人の御家人の一員となった。しかし実朝は乳母である比企氏に育てられたため北条氏当主である時政を敵視していた。義時と政子は敵視されることなく微妙な立場だったが、比企一族ばかりを優遇する頼家には不満を持っていた。 

 

政子は自分が産んだ子どもであるが、育ててはいない頼家にあまり愛着がない。頼家も母親である自分よりも比企一族を信用して権力を与える。その上、頼家は政子の妹である実衣の夫の全成を謀反人として誅殺してしまった。かわいい妹を苦しめるなんて許せない、と政子は捕縛されそうになった実衣の引き渡しを拒否する。


さらに頼家は比企の娘との間にできた子である一幡を後継ぎにするという。これは政子の権力を貶めることであり、とても許せることではない。頼家を鎌倉殿の座から引きずり下ろすことを決心する。

 

頼家が急病で危篤状態になったのをいいことに、妹の実衣が育てた実朝を次の鎌倉殿にしようとする。そこで邪魔なのが比企氏である。だったら滅ぼしてしまえばいい。以前から比企氏や頼家と対立していた時政や義時に協力を求め比企一族を滅ぼす。頼家が後継ぎにしようとしていた一幡も一緒に。そして実朝が3代目鎌倉殿となった。

 

その後、回復して比企氏が滅ぼされたことを知り激怒した頼家を政子は修禅寺に押し込める。もはや頼家を鎌倉殿にするわけにはいかない。頼家が鎌倉殿に返り咲こうとするのなら暗殺も辞さないという考えで見張りをつける。後に頼家が暗殺されたと聞いた時も特に悲しむことはなかった。

 

頼家を排除し北条家と縁のある実朝が3代目鎌倉殿になると、政子は権力を取り戻した。時政と義時も重役について親子2代で鎌倉を支配するように。

 

しかし時政はそれだけで満足せず、さらなる権力のため畠山氏を滅ぼしてしまう。そして実朝を殺害して牧の方との間にできた娘の婿を鎌倉殿にしようとする。

 

これは義時にも政子にも許せることではない。義時は自分の母よりも後妻の牧の方を愛し、自分に後を継がせない時政を憎んでいた。牧の方との間にできた息子が亡くなっても自分ではなく娘婿に権力を持たせようとするなんて。

 

政子は鎌倉殿が自分の子どもでなくなると権力が弱まってしまう。義時と政子は時政が邪魔だということで利害が一致した。頼朝の血縁である実朝を消して鎌倉殿を別の者にすることは明らかに謀反であり正当性がない。そのため他の御家人の協力も簡単に得られ、義時と政子は時政を追放した。

 

その後は鎌倉殿である実朝をコントロールしながら義時と政子が鎌倉を支配した。実朝が幼いうちは義時と政子の思うままに動いていたが、成長した実朝は後鳥羽上皇推しになる。これはいけない。

 

そもそも後鳥羽上皇は朝廷の影響力を強めるために和歌を口実にして実朝に接近していた。上皇は右大臣という官位を授けたり自分の娘を妻として差し出したりしたので、実朝はすっかり信用してしまった。義時は鎌倉幕府を守るために後鳥羽上皇には近づかないよう忠告するが、実朝は聞く耳を持たない。

 

義時は実朝も邪魔だと思うようになる。しかし政子の産んだ子だし妹の実衣が育てた子なので、どうにかするわけにもいかない。だから鶴岡八幡宮で実朝が頼家の子の公暁に暗殺されたことを知った時は予想外でショック。

 

頼朝の直系がいなくなってしまっため、京から摂関家の三寅を4代目鎌倉殿として迎え入れた。政子は幼い三寅の鎌倉殿代行として、義時は執権として権力を握る。

 

そんなとき鎌倉で実権を握る北条氏を排除したいと幕府を倒す機会を狙っていた後鳥羽上皇が挙兵した。上皇は義時追討の官宣旨を全国に出す。それを見た義時は動揺し政子を頼る。

 

政子はつねづね朝廷が影響力を高めるのをを快く思っていなかった。そんな朝廷のトップである後鳥羽上皇が戦を仕掛けてきたのだ。これは朝廷を倒すチャンスではないか。

 

宣旨には義時の名のみしかなく幕府そのものを倒すとは明言されていなかったが、政子はこれを幕府全体への攻撃であるとして頼朝の恩顧を訴える演説をし、御家人達を団結させた。そして承久の乱で勝利する。

 

勝利した幕府は後鳥羽上皇を流刑にし、後鳥羽上皇の莫大な荘園も没収。親幕府派の公家らを中心として朝廷を再編成し、公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題を京都に設置する。

 

こうして朝廷と幕府の力関係が逆転し、幕府の影響力が日本全体に及ぶようになった。義時と政子は日本全国を支配することになり、自らの権力欲を満足させた。

 

義時も政子も贅沢しすぎて生活習慣病で亡くなる。

 

以上