正しい日本語って必要ですかね

たまにテレビで正しい日本語について説明していることがある。例えば過去には松阪牛のことを「まつさかぎゅう」と言っていた。だがある番組で間違いを正したためか、いつからかどのテレビ番組でも「まつさかうし」と言うようになっていた。

 

「姑息」はひきょうなという意味だと思っていたが、本来は一時しのぎという意味らしい。ひきょうなの方が定着しすぎていて違和感しかない。誰かから姑息だと言われたら悪口を言われたとしか思えない。

 

また「檄(げき)をとばす」は元気のないものに刺激を与えて活気づけることだと思っていたが、本来は自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めることらしい。活気づけるの意味で使われるようになったのは激励の「激」のイメージで使われていたからだと聞いて妙に納得した。ちなみに木へんの「檄」は人々を集めるために木札に書いた文書のことらしい。

 

日本語は人々が使っていくなかで変化するものである。新しく生み出されている言葉もたくさんある。自分は多くの人に意味が伝わるのが正しい日本語なのではないかと思う。多くの人が違う意味だと理解している言葉の意味を正しい日本語だというのはどうなのか。

 

敬語や助詞など日本語に関する一定のルールは必要だと思う。だがそれ以外の言葉は使われるうちに変化するものなので、正しいと言われる日本語にこだわらず多くの人に伝わる日本語を使っていきたい。