登山は上りより下りがきつい

久しぶりに登山に行ってきた。山は登山初心者向けで絶景を楽しめるという評判の伊予富士。

 

標高は1756mだが登山口から頂上までは810mくらい。距離6.1km、上り2時間20分、下り2時間10分のコースである。初心者向けとはいえ定期的な運動習慣のない自分にはなかなかの難易度である。

 

朝9時くらいに到着したが一番近くの駐車場は満車だった。仕方なく少し離れた臨時駐車場へ。そこから歩いて登山口へ向かい案内の看板を見つける。

 

登り始めてすぐはなかなかの勾配で梯子やロープがないと危険な箇所もあったが、しばらく登るとなだらかな道になってきた。そのまま登り続けると急に道が開けた。山のてっぺん近くまで来たからである。

 

そこからは山頂と山頂を結ぶ道筋である尾根をずっと歩いていく感じ。たまに上ったり下ったりはするが、あまり急でなく頂上の景色をながながと楽しむことができた。右に海、左には山々が連なっているところも。

 

道の周りは笹が生えているだけなので、先や後を歩いている人がかなり遠くまでよく見える。山登りでここまで他の登山客の姿が見えるのは新鮮だった。

 

伊予富士の山頂近くはけっこうな急勾配で、道も細かったのでちょっとした崖上り感覚。前を行く人の姿が見えなくなったと思っていたら山頂に着いた。

 

山頂は少し平らなスペースがあったので休憩をかねてパンとおにぎりを食べる。横では湯を沸かしてカップラーメンを作っている登山客もいた。

 

食べ終わって一息ついたら下山だ。上りはちょこちょこ休憩しながら登ったので息も上がらず、あまり疲れも感じていなかったので下りは余裕だろうと思っていた。ところがどっこい、そうは問屋が卸さない。

 

下山し始めると足裏が痛くなり普通に歩けなくなっていった。底が厚めの運動靴を履いてきたが、大きめの石がゴロゴロしてた道が多かったから耐えられなかったのかもしれない。

 

急な下りで靴の中で足が滑ってつま先が靴先にぶつかるのも痛かった。今思えば靴紐がゆるかったのだろう。山頂で靴ひもを結び直せばよかった。靴下も底に滑り止めのあるタイプを履いておけばよかった気がする。

 

湿ってぬかるんでいるところは滑るので、道の左右に生えている笹を掴みながら転ばないように。気をつけながらゆっくりめに歩いていたが、下山するまでに3回くらい滑って尻もちをついてしまった。

 

下っている途中に中級者っぽい二組に抜かされた。スピードが早くあっという間に姿が見えなくなった。

 

ゴール近くになってからがなかなか長く、よくこんなに登ってきたものだなあと自分で自分に驚いた。最後の駐車場までのアスファルトの道が足裏に響いてきつかった。

 

家に帰ってすぐフェルビナクを塗ったが、翌日は大腿四頭筋が筋肉痛に。足が上がらずジャンプもできない。立ち上がるのと階段を降りるのが特にきつい。日常生活でこんなに筋肉使ってたんだな。3日間は引きずった。

 

次に登山する時は靴と靴下の準備や事前の筋トレをして万全の体制で挑みたい。

名古屋城に行ってきた

2023年3月名古屋城に行ってきた。

名古屋城(なごやじょう)は尾張国、現在の愛知県名古屋市にある。大天守に上げられた金鯱が有名で「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」とも呼ばれる。大阪城、熊本城とともに日本三名城にあげられることも。

 

名古屋城関ケ原の戦いの後、徳川家康が築城してそれから明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家の居城だった。1945年の名古屋空襲で本丸のほとんどが焼失してしまい1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造の天守閣が再建された。

 

行った時は耐震工事中のため天守閣には入れなかった。外から近づいて写真を撮るだけしかできなかったのが残念。ちょっとした展望台のような場所があり、そこからだと金のしゃちほこが2つとも見えた。

 

内部見学ができたのは本丸御殿だけ。建物は2018年に復元工事が終わったからかきれい。焼失を免れた障壁画や屏風や武具が展示されており、虎と豹がいる金の屏風が目立っていた。当時は豹が虎のメスだと思われていたらしい。他は鶴とか松とか竹林とか。

 

障子とか天井とか襖の手をかけるところには豪華な装飾がしてあった。黒と金の組み合わせは煌びやかさがある。木彫りの立体感がすごかった。設置してある消火器の色は雰囲気に合わせたのかシルバー。

 

将軍専用の風呂場である湯殿は建物はつながっているが入り口は別。一度に15人ずつしか入れずガイドが10分間の説明をしてくれる。ちょうど行ったタイミングで行列ができていたのて20分くらい待った。湯をためる風呂ではなくサウナ式蒸風呂なので天井が低いだけの部屋にしか見えない。

 

名古屋城には豊臣方への備えという役割もあったようだが、軍事施設として使われたこはなく客人がよく招かれていた。だから徳川の権威を見せつけるための豪華絢爛な城になったのだろうと思う。また工事が終わったら天守閣にも入ってみたい。

 

彦根城に行ってきた

2023年3月彦根城に行ってきた。

彦根城(ひこねじょう)は近江国、現在の滋賀県彦根市にある城であり琵琶湖に面している。天守が国宝指定されている城は5つだけありそのうちの1つ。ちなみに他は犬山城松本城、姫路城、松江城島根県松江市にある松江城には行ったことある。

 

彦根城徳川四天王の一人である井伊直政の家臣によって築上された。井伊直政は1600年の関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられたのだが、戦の傷が癒えず2年後に死去。井伊直継が家督を継ぐが幼少であったため、家老の木俣守勝が直政の遺志を継いで1603年に彦根山(金亀山)に彦根城の築城を始めたと言われている。

 

その後は歴史の授業で習った通り徳川幕府が統める太平の世が続くので、彦根城の軍事施設としての存在理由はなくなった。主に年貢米の保管など倉庫として使われていたとか。

 

ただ軍事施設としての名残は残っている。道がコの字に囲まれていたり、表門から入ると橋の下をくぐって3回左折して橋を渡らないと本丸へ行けなかったり、いたるところに櫓があったり、天守の鉄砲や矢で攻撃する穴が漆喰で塞がれ外から見えにくくなっていたり、隠し部屋があったり。

 

櫓は天守の奥にある西の丸三重櫓が印象に残っている。見た目はシンプルだが3階建でひらけた場所にあるので見晴らしがいい。古い階段は使用禁止になってたが3階まで登れる櫓は初めて見た。

 

天守は階段が急だったことしか印象に残ってない。角度は62度だそうだがはしごを登っているかのような感覚。展示物はなにもなく、ただ3階まで階段を上って景色を見て下りただけ。窓から光があまり入らず中はまあまあ暗かった。木造だったので趣はある。

 

きれいだったのは楽々園の奥書院。石の上に立つ屋敷がなんかいい感じだった。隣にある玄宮園は平凡。別料金だが渡れない橋ばっかりだし、あまり広くもない。

 

駐車場近くにある21頭の馬がつながれていたという馬屋はけっこう大きかった。山の斜面を登るように築かれている登り石垣は迫力がある。切った石をパズルのように組み合わせたタイプではなく、いろんな大きさの石のすき間に小さな石を詰めたタイプの石垣はちょっと珍しい。

 

駐車場から表門をぬけて山道を登り天秤櫓、太鼓門櫓を通過して天守と三重櫓を見学し、山道を下って楽々園と玄宮園を見て駐車場に戻った時には、ゆっくりしたわけでもないのに70分経っていた。敷地が広く歩き回るだけでいい運動になる。もっと時間があれば彦根城博物館も見たかった。

プロ野球の試合長すぎ

大谷選手やダルビッシュ選手がWBCに出場すると話題になっていたのでプロ野球の試合を初めてフルで見たのだが、7時に試合を見始めたのに終わったのは11時過ぎだったので驚いた。プロ野球の試合って延長なしでも4時間以上かかるのか。

 

プロ野球の試合は中学生のときに修学旅行で一度見に行ったが、試合が長引き最後まで見ることなくホテルに帰らされた。

 

自分が過去にフルで見たことのある野球の試合はさっさと終わる高校野球だけ。高校生のときに野球部の地方予選の応援で見た。コールドではなく9回裏までやったが2時間もかからなかった。

 

なのになぜプロ野球はこんなに試合時間が長いのか。テレビで試合を見るだけでも時間かかりすぎとイライラすることがたくさんあった。攻守交代するごとにCMが挟まり、ひどい時は1打席ごとにCMが挟まる。けっこう長いCMの後でも試合は全く進んでいない。最後のほうは早くコールドで終われと願ってしまっていた。

 

攻守交代は高校野球では全力疾走でやっていてあっという間だった気がするが、CMの長さからするとプロ野球ではだらだらゆっくり歩いているんだろう。投手と捕手と打者以外はほとんど動いてないんだから、交代くらいは走ってほしい。

 

腹が出ているメタボ体型の選手が多いのは、走らないからじゃないのか。打球を遠くに飛ばすためには体重が必要だというのはわかるが、腹が出ているのはなんか違う。全体的にバランスよく筋肉をつけたがっちり体型の方が理想的な気がする。

 

それに投手の交代が多すぎる。一試合で10人とか。作戦として継投するのはいいが打者3人しか回ってないのに交代は早すぎる。なぜあんなに交代しまくるのかと思っていたら、なんと野球では一試合で交代できる人数に制限がないらしい。

 

そして投手が交代するたびに投球練習をするため試合が中断され試合時間が伸びる。何回も交代するのは認めるにしても、投球練習はなしでよいのでは。他のスポーツで交代選手に練習時間があるなんて聞いたことがない。試合前に練習時間はあるし、ブルペンもあるのだからそっちで準備してれば試合を中断することなく進められる。

 

投手と捕手と打者の駆け引きはあってもいいが、それによってあまりにも投球間隔が長くなるならペナルティが必要だと思う。○秒以上かかることが3回あったら相手に1点入るとか。

 

あと監督かコーチがマウンドにいる投手に指示を伝えに行くときにゆっくり歩いていくのもどうかと思う。試合を中断しているのだから少しでも急いで、試合の邪魔をしないのも監督やコーチの役割ではないのか。高校野球みたいにマウンドに入るのを禁止にしてもよいと思う。指示はタイムのときにすればいい。

 

乱打戦や延長線になったりして試合時間が伸びるのはいいのだが、だらだら試合しているように見えるのが残念。

 

人間の集中力は90分が限界。ねばっても2時間までという感じ。どんなにおもしろい映画でも2時間を超えると見るのがしんどくなり必ず一回は時計を見る。だからプロ野球の試合はどうがんばっても集中して最後まで見ることができない。

 

高校野球は好きだけどプロ野球は嫌いだと言っていた友人の気持ちがわかった。高校野球はメタボ体型の選手はほとんどいないし、ダラダラと試合をすることもない。吹奏楽部が演奏する応援曲も気分が盛り上がる。

 

高校野球が好きだということは野球というスポーツが嫌いなわけではないということだ。世界で活躍する日本の選手も増えてきている。高校野球で活躍していた選手が将来的にプロ野球選手になることも多いので、もっと野球観戦を楽しめるようにプロ野球にはぜひ試合時間を短縮してほしいと思う。

ぼくのかんがえたさいきょうの北条家

既視感のあるタイトルである。今回は「鎌倉殿の13人」を全話見たのだが北条義時北条政子の人物像が全く見えてこなかったので、自分なりに理想の義時と政子について考えてみた。

 

「鎌倉殿の13人」では家族仲がよく人を殺しても謀反を起こしても、身内にだけはやさしい北条ファミリーだったが、本当は家族関係はもっとギスギスしていたのではないだろうか。 

 

ドラマでは義時も政子も周りに巻き込まれていつのまにか権力を持っていたという感じだったが、あれだけ権力争いの激しい世で自然に権力を持つのは不自然だ。義時も政子も北条氏や周囲の人のためというよりは自らの権力のために戦う人間だったと考える。

 

北条政子は生まれつき権力欲が強く、始めから権力が目当てで源頼朝に近づいた。平家に対する不満が高まっているなか、平家追討の旗印になるのは頼朝しかいない。頼朝が平家を倒して天下をとった時に婚姻関係を結んでいれば自分は御台所になれる。そう思って。

 

政子が頼朝の浮気を許さなかったのは、頼朝が他の女と子を作ってしまうと身分の低い自分の子以外が跡継ぎになる可能性が高くなるから。自分の子が後継ぎにならないと政子自身の権力が弱まってしまう。だから亀の前事件などで館に火をつけさせてまでも頼朝の浮気を断固阻止した。

 

北条義時北条時政の次男である。頼朝が挙兵したときに長男が亡くなったため、次男である義時は当然北条氏を継ぐものだと思っていた。だが義時の母は身分が低い上に時政は後妻の牧の方を溺愛していたため、牧の方との間にできた子どもに後を継がせようとしていた。

 

それを時政の自分への態度から察した義時は北条氏を継ぐことをあきらめ頼朝に仕えることで権力を手に入れようとした。義時は家を背負う必要がなく身軽な立場だったので頼朝も使いやすかった。実際に仕事もできたので頼朝から重用されるように。

 

頼朝が権力を持っている間の北条ファミリーは安定していたが、頼朝が亡くなって頼家が2代目鎌倉殿になると不安定に。頼家の元で時政と義時は政務を行う13人の御家人の一員となった。しかし実朝は乳母である比企氏に育てられたため北条氏当主である時政を敵視していた。義時と政子は敵視されることなく微妙な立場だったが、比企一族ばかりを優遇する頼家には不満を持っていた。 

 

政子は自分が産んだ子どもであるが、育ててはいない頼家にあまり愛着がない。頼家も母親である自分よりも比企一族を信用して権力を与える。その上、頼家は政子の妹である実衣の夫の全成を謀反人として誅殺してしまった。かわいい妹を苦しめるなんて許せない、と政子は捕縛されそうになった実衣の引き渡しを拒否する。


さらに頼家は比企の娘との間にできた子である一幡を後継ぎにするという。これは政子の権力を貶めることであり、とても許せることではない。頼家を鎌倉殿の座から引きずり下ろすことを決心する。

 

頼家が急病で危篤状態になったのをいいことに、妹の実衣が育てた実朝を次の鎌倉殿にしようとする。そこで邪魔なのが比企氏である。だったら滅ぼしてしまえばいい。以前から比企氏や頼家と対立していた時政や義時に協力を求め比企一族を滅ぼす。頼家が後継ぎにしようとしていた一幡も一緒に。そして実朝が3代目鎌倉殿となった。

 

その後、回復して比企氏が滅ぼされたことを知り激怒した頼家を政子は修禅寺に押し込める。もはや頼家を鎌倉殿にするわけにはいかない。頼家が鎌倉殿に返り咲こうとするのなら暗殺も辞さないという考えで見張りをつける。後に頼家が暗殺されたと聞いた時も特に悲しむことはなかった。

 

頼家を排除し北条家と縁のある実朝が3代目鎌倉殿になると、政子は権力を取り戻した。時政と義時も重役について親子2代で鎌倉を支配するように。

 

しかし時政はそれだけで満足せず、さらなる権力のため畠山氏を滅ぼしてしまう。そして実朝を殺害して牧の方との間にできた娘の婿を鎌倉殿にしようとする。

 

これは義時にも政子にも許せることではない。義時は自分の母よりも後妻の牧の方を愛し、自分に後を継がせない時政を憎んでいた。牧の方との間にできた息子が亡くなっても自分ではなく娘婿に権力を持たせようとするなんて。

 

政子は鎌倉殿が自分の子どもでなくなると権力が弱まってしまう。義時と政子は時政が邪魔だということで利害が一致した。頼朝の血縁である実朝を消して鎌倉殿を別の者にすることは明らかに謀反であり正当性がない。そのため他の御家人の協力も簡単に得られ、義時と政子は時政を追放した。

 

その後は鎌倉殿である実朝をコントロールしながら義時と政子が鎌倉を支配した。実朝が幼いうちは義時と政子の思うままに動いていたが、成長した実朝は後鳥羽上皇推しになる。これはいけない。

 

そもそも後鳥羽上皇は朝廷の影響力を強めるために和歌を口実にして実朝に接近していた。上皇は右大臣という官位を授けたり自分の娘を妻として差し出したりしたので、実朝はすっかり信用してしまった。義時は鎌倉幕府を守るために後鳥羽上皇には近づかないよう忠告するが、実朝は聞く耳を持たない。

 

義時は実朝も邪魔だと思うようになる。しかし政子の産んだ子だし妹の実衣が育てた子なので、どうにかするわけにもいかない。だから鶴岡八幡宮で実朝が頼家の子の公暁に暗殺されたことを知った時は予想外でショック。

 

頼朝の直系がいなくなってしまっため、京から摂関家の三寅を4代目鎌倉殿として迎え入れた。政子は幼い三寅の鎌倉殿代行として、義時は執権として権力を握る。

 

そんなとき鎌倉で実権を握る北条氏を排除したいと幕府を倒す機会を狙っていた後鳥羽上皇が挙兵した。上皇は義時追討の官宣旨を全国に出す。それを見た義時は動揺し政子を頼る。

 

政子はつねづね朝廷が影響力を高めるのをを快く思っていなかった。そんな朝廷のトップである後鳥羽上皇が戦を仕掛けてきたのだ。これは朝廷を倒すチャンスではないか。

 

宣旨には義時の名のみしかなく幕府そのものを倒すとは明言されていなかったが、政子はこれを幕府全体への攻撃であるとして頼朝の恩顧を訴える演説をし、御家人達を団結させた。そして承久の乱で勝利する。

 

勝利した幕府は後鳥羽上皇を流刑にし、後鳥羽上皇の莫大な荘園も没収。親幕府派の公家らを中心として朝廷を再編成し、公家政権の監視にあたる出先機関として六波羅探題を京都に設置する。

 

こうして朝廷と幕府の力関係が逆転し、幕府の影響力が日本全体に及ぶようになった。義時と政子は日本全国を支配することになり、自らの権力欲を満足させた。

 

義時も政子も贅沢しすぎて生活習慣病で亡くなる。

 

以上

雨の日のグレーチングが怖い

グレーチングとは歩道や道の脇にある溝にかぶせてある網目状の蓋のことである。グレーチングが設置されているのは予想していた通り、道の雨水などを排水するためらしい。

 

これが雨の日の自転車には超危険である。上を走っているとタイヤが横滑りする。スピードを落としてもやはり滑る。避けて通りたいのだが、自転車通行可の歩道の幅と同じくらいの幅のグレーチングなので避けられない。しかもグレーチングは1メートルごとにある。排水のためにしては多すぎ。

 

じゃあ車道を走ろうかと思っても道幅が狭く交通量の多い道路なので、車の来てないタイミングじゃないと危険である。空いているときに車道に出ても、トラックなどの大型車が来ると命の危険を感じる。

 

そもそも車のドライバーには優しいのに歩行者や自転車乗りに優しくない道路が多すぎることが問題である。傾斜のある道の端から30センチのところに白線をひいてある歩道とか。自転車と軽自動車が並走できないくらい幅の狭い二車線道路とか。

 

歩道は歩行者とスピードを出さずに走る自転車のための道だが、車道は車だけのための道ではない。車輪のある乗り物全てのための道である。よってただでさえ狭い歩道にグレーチングをおくのは間違っている。

 

車道にグレーチングを設置すればいいのではないかと思ったが、過去に跳ね上げ事故が何件もあって撤去されたらしい。確かに人が乗るだけで動くグレーチングもあるしそんな物に重い車体が乗ったらひとたまりもないだろう。だったらちゃんと耐久性のあるグレーチングを設置したらよいのではと思ったが、長期間使用による劣化の問題もある。

 

だからといって歩道にグレーチングを設置するのは歩行者にとっても迷惑である。寒い日は滑りやすいし、就活のパンプスで歩いてたらグレーチングの溝に踵がはまって転びそうになったこともある。鍵など溝の中に落としてしまったら拾うことはできない。

 

どうしても歩道に設置するというのならもっと穴が小さく滑りにくいグレーチングにしてほしい。ただでさえ狭い歩道に質の悪いグレーチングまで押し付けるのは理不尽だ。はやく日本全国のグレーチングが改善されることを願う。

運動会の思い出

だんだんと涼しくなってきて、近くの中学校で運動会の練習をしているのを見かけるようになってきた9月下旬。そろそろ運動会の季節である。そこで自分の運動会の思い出を振り返ってみる。

 

ちなみに小学校と中学校は運動会、高校や大学は体育祭ということが多い。理由は運動会は先生が企画し指導するから、体育祭は生徒が中心になって作り上げるからだとか。まあ学校によって当てはまらないところもありそうだが。

 

運動が苦手だから運動会が嫌いだという人もいるが、自分はそうでもなかった。50m走は10秒代、体力テストはC判定と決して運動が得意ではなかったが、運動会はそれなりに楽しかった思い出もある。

 

個人競技ではかけっこと障害物競走があったのだが、クラスで50m走のタイムが速い人はかけっこ、遅い人は障害物競走に参加することに。かけっこは純粋に走る速さを競うので、クラスで勝つ確率を高めるためにそうするのは正しい戦略である。

 

自分が参加するのはもちろん障害物競走。それはいいのだがゴール前で風船をおしりで割るというのがちょっと嫌だった。簡単に割れるとおしりが重たいみたいだし、だからといって割れずにもたつくのも恥ずかしいし。

 

練習では風船は準備されておらず、本番一発勝負。スタートでは出遅れたが、ハードル飛びで巻き返して一番はじめに網をくぐり抜け、風船をあっさり割って1位でゴールした。個人競技で自分が1位をとった唯一の思い出である。

 

クラス対抗リレーは足の速い人がヒーローになれる競技。自分のような凡人は順位そのままで次の人にバトンを渡せれば上出来。あとは列に戻って応援するだけ。自分のクラスで2番目に足の速い人が3位から前2人を追い抜いて1位になり、1番足の速い人が1位のままグラウンド四分の一くらいの差をつけた時は盛り上がった。その後のメンバーはその差をキープして結果クラスは1位に。自分が活躍してなくてもなんかテンションが上がった。

 

小中高と定番だったのがつな引き。腰を落として重心を後ろにおくとか、クラスで一番身体の大きい子を最後尾にするとか、工夫したがあまり役に立たなかった。拮抗している間は踏ん張れるが、引っ張られてバランスが崩れると一気に持っていかれる。なかなか奥の深い競技だと思う。

 

クラス全員が縄を持ってピストルの音と同時に引っ張りだす普通の綱引きだけでなくアレンジした綱引きもあった。縄を3本グラウンドの真ん中に置いておいて、生徒は左右のライン内に待機。よーいドンで一斉に走り出して綱をつかみ、より多くの綱を自陣に持ち帰ったクラスが勝ちというもの。

 

3本のうちどの綱をつかむかは自由なので、様子を見ながらどこに行くかを決める。負けそうなところを助けに行ってもいいし、勝ちそうなところに加勢しに行ってもいい。勝負が決まったら他の綱のところに行けるので、早めに勝負を決めると有利になる。3対1とかになるとかなり引きずられてちょっと危なかったりするのだが、スピード感があってやるのも見るのも楽しかった。

 

ムカデ競走は練習が大変だった。つないでいる足は痛いし、よく転ぶし、転ぶと1番前の人が重症になるのが申し訳ない。見るのも足がいっぱい並んでいるのはなんか気持ち悪い。

 

十六人十七脚はちゃんと練習して、1位をとれたのでいい思い出になっている。二人三脚、三人四脚、五人六脚、六人七脚と順番にリレーで走っていき、最後に全員の足をつなぎ合わせて十六人十七脚で走ってゴール。二人三脚をクラスで足の速い2人にやらせたのと、左右どっちの足をだすか混乱しないように、次に出す足を後ろに下げてスタンバイ作戦がよかったと思う。

 

小学校のときは毎年ダンスを踊っていた。音楽も振り付けも先生が考えたもの。いろんな競技の中で練習の時間が1番長かった気がする。慎吾ママのおはロックと銀の星と青いリボンを手につけたこと、世界の国旗を描いたシールを顔に貼って踊ったことは覚えているが、それ以外は記憶にない。

 

6年生だけは組体操をする。短パン裸足でやらされるため、グラウンドの砂利が気になる。扇は難易度低めだが、きれいに見せるにはバランス大事。サボテンは肩車をされて上に立つ側だった。身長の関係で上になったのだが、太っていた時期だったので下の人に申し訳なかった。ピラミッドでは1番下の段だったので、膝に小石が刺さって痛かった。人の上に立ったりするから靴を脱ぐのはわかるが、なぜ長ズボンに靴下じゃだめなのか。

 

中学校のフォークダンスはクラスで付き合っているという噂のある子どうしが踊れるように並び順を変わったりしてた。自分は気になる人もいなかったので踊っているときの感情は無。なぜか制服の黒いスカートで踊らされたので土ぼこりで汚れて洗うのが大変だったという記憶しかない。

 

高校の体育祭では応援合戦か巨大アーチ作りを選ぶ。応援合戦は鮮やかな衣装をまとった集団がドラム缶太鼓の音に合わせて一矢乱れぬ動きをするので見るのは楽しいのだが、練習は地獄。腰を落とした体勢のまま何十分も耐えるトレーニングに耐えられる気がしなかったので、自分はアーチ作りを選択。

 

アーチ作りのほうが人気がなく、同クラスでまじめに参加してるのは自分だけだった。だがそこで趣味の合う他クラスの人と仲良くなれたのでよかった。

 

肝心のアーチ作りは美術部の人が主導してくれるので自分は指示に従うだけ。アーチをデザインした人の腕がよかったので、言われたとおり色を塗ったり銀紙を貼ったりしていくだけで完成し、1位を獲得した。

 

男子がただポリタンクを持ち上げているだけの競技は見るのも暇だし、無理したら肩とか傷めそうだし、やめてやれよと思いながら見ていた。十分くらい耐えてた人はすごいとは思う。

 

部活動対抗リレーは服装と持ち物によるハンデがでかい。木刀を持って袴の裾を持ち上げながら走らなければならない剣道部は圧倒的不利。

 

漫画やアニメでしか見たことない運動会の競技は借り物競走とパン食い競走。親の世代の運動会ではあったらしい。借り物競走は観客から借りたものを落としたり壊したりしたら問題になるし、パン食い競走は衛生やアレルギーの面でなくなったのではないだろうか。

 

社会人になってからは運動会というものと関わることはない。昔は会社の運動会とか地域の運動会とかあったらしいが、最近は全く聞かない。おそらく参加希望者が減っていって廃れたのだろう。

 

今や運動会は学生のためだけのものである。この先自分が運動会に参加することはないだろう。運動会の季節にはたまに過去の運動会の思い出に浸ってみるのもいいかもしれない。